これまで、仕事についていくつかの記事を書いてきましたが、
振り返ってみると、何度も同じ構図に行き当たっていることに気づきます。
それが、
評価・報酬・社会性の三つの関係です。
この3つは、本来は重なっているはずなのに、
資本主義的な環境では、簡単にズレてしまう。
そのズレが、
虚無感や違和感、あるいは過度な最適化を生む原因になっているように思います。
本来は重なっていた三つのもの
まず理想的な状態を考えます。
社会性:他者の生活を支え、共同体の中で役割を果たすこと
評価:その行為が他者から承認・信頼されること
報酬:生活を維持・拡張するための対価
本来は、
- 社会にとって意味のある行為
- → 他者から評価され
- → その結果として報酬が得られる
という一本の線でつながっていました。
仕事と生活が未分化だった時代には、この3つはほぼ同じ場所にありました。
資本主義がもたらした切断と自由
資本主義は、この関係を一度切断します。
- 社会性から切り離された行為でも
- 市場で需要があれば
- 評価(価格)と報酬(金銭)が得られる
これは大きな自由を生みました。
資本主義のシステムは、誰にどう思われるかを気にせず、市場だけを相手に稼ぐことを可能にしたのです。
大学生時代の私が深く物事を考えずにお金を稼ぐことに集中できたのも、
この画期的な仕組みがあったからです。
報酬だけが先行すると何が起きるか
ただし、
報酬だけが切り離されると、次のような不具合も生まれることに気が付きました。
- 稼いでいるのに、どこか満たされない
- 誰の役に立っているのか実感できない
- 社会にフリーライドしている感覚が残る
これは「お金が足りない」問題ではありません。
むしろ、
報酬が十分に得られているからこそ生まれる「他者から何かを奪っている感覚」。
私が大学生時代に感じていた虚無感はこの状態にかなり近かったと思います。
私にとって、報酬だけを追い求めるのは不健全だったようです。
評価が入ると「ゲーム」になる
状況が変わったのは、
切り離されていた報酬に「評価」が加わった時でした。
「社会生活というゲームが、思ったより楽しいと感じている話」で書いたように、
- 上司や同僚からの評価
- 任される仕事
- 信頼されているという感覚
これらは、
社会性を「点数化」したものとも言えます。
評価は、
- 社会性を可視化する
- 行為と結果の関係を単純化する
という点で非常に強力で、この最大化を目指すゲームというのは
それはそれで実りのあるものでした。
評価に最適化しすぎると起きる歪み
ただし、
評価が強くなりすぎると、別の問題が出てきます。
- 評価される行為=正しい行為
- 点数が上がる行動=取るべき行動
という短絡が起きやすくなる。
すると、
本来支えるべき相手よりも評価者の視線が優先されるという逆転が起きます。
評価は社会性の代替物であって社会性そのものではないのに、そこがすり替わってしまう。
「ゲームが楽しい」と感じる一方で、
そのゲームの最適化を続けた結果、またどこか居心地の悪さが残る理由は、
ここにあるのだと思います。
肝となる業務は三つが最も重なる場所
「肝となる業務」の話は、
この三つの関係をかなり実務的に言い換えたものです。
- 他者にとって意味があり(社会性)
- 結果がすぐ返ってきて(評価)
- 役割や裁量が広がる(報酬・信頼)
肝となる業務とは、
評価・報酬・社会性が比較的ズレにくい場所
だと言えます。
だからこそ、
- 成長している実感があり
- 働きやすくなり
- 虚無感が入り込む余地が少ない
三要素を完全に一致させることはできない
重要なのは、
この三つを完全に一致させようとしないことです。
- 評価は歪む
- 報酬は遅れたり、過剰だったりする
- 社会性は文脈依存で測れない
どれも不完全です。
ただ、
- 今、自分はどこを最適化しているのか
- 報酬だけを追っていないか
- 評価に引っ張られすぎていないか
- 社会性を無視していないか
この位置関係を
自覚できているかどうかが大きい。
まとめ:三要素を眺め続けるという態度
仕事をしていると、
評価・報酬・社会性は必ずズレます。
ズレない仕事を探すのではなく、
ズレていることに気づき続ける。
- 評価を信号として使い
- 報酬を生活の道具として受け取り
- 社会性を完全には手放さない
そのバランスを探り続けること自体が、
この社会で健全に生きていく、ということなのかもしれません。
おしまい。







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