仕事と生活が分離された社会で、なぜ虚無感が生まれるのか

仕事論

仕事について考えるとき、
どうしても個人の努力や適性、やりがいの話に収束しがちです。

でも、少し引いて眺めてみると、
「個人の問題」として片づけるには違和感が残る感覚があります。

その違和感の正体を、
自分自身のこれまでの経験を振り返りながら整理してみたいと思います。

社会性を切り落としていた大学生時代

大学生の頃、
私はかなり極端な状態にありました。

他人の目をほとんど気にせず、
部活にも入らず、
親密な友人関係を築くことにもあまり関心がなく、
ひたすら「お金を稼ぐこと」だけに興味を向けていました。

効率よく稼ぐ方法を考え、
成果が数字で返ってくることに安心し、
一見すると合理的に振る舞っていたと思います。

それでも、
どこかに薄い虚無感のようなものがありました。

当時は理由がよくわかりませんでしたが、
今振り返ると、
社会性を意図的に無視した状態でお金を稼ぐことへの違和感
だったのではないかと思います。

自分は社会のインフラや秩序の上に乗りながら、
その社会に対して何も返していない。
どこかでフリーライドしている感覚。

その居心地の悪さが、
虚無感として残っていたのかもしれません。

医師として働き始めて起きた変化

就職し、研修医として働き始めてから、
私は一度切り捨てたはずの社会性を、
意図的に取り戻そうとしました。

患者のために動く。
同僚のために手を動かす。
上司の期待に応えようとする。

正直に言えば、
最初はかなり不器用で、
がむしゃらだったと思います。

でも、その過程で、
大学生の頃に感じていた虚無感は、
はっきりと薄れていきました。

代わりに、
「自分は今、社会において意味のあることをしている」
という充実感が生まれました。

資本主義が生んだ分離

ここで、少し構造の話をします。

仕事は本来、生活と切り離されていませんでした。

  • 食べるために狩りに行く
  • 暮らすために住処を整える
  • 他者を助け、助けられる

これらはすべて、生活そのものでした。

しかし資本主義社会では、
その一部、特に「獲得の部分」が切り出され、
仕事として独立しました。

その結果、

  • 仕事=お金を稼ぐ行為
  • 生活=仕事の外側

という分離が生まれます。

分離がもたらした効率と自由

この分離には、明確な利点があります。

  • 専門化が進み、生産性が上がった
  • 個人が役割から解放され、選択の自由を得た
  • 労働と私生活を切り分けられるようになった

これは間違いなく、
資本主義がもたらした進歩です。

問題は、
分離が進みすぎたことだと思います。

社会性が不可視化された結果

仕事が生活から切り離されすぎると、

  • 誰の生活を支えているのか
  • どこで社会と接続しているのか

が見えなくなります。

すると、

  • 誰の役にも立っている実感のない仕事
  • 意味の薄い仕事のための仕事
  • 極端には、価値のないものを売る仕事

が生まれやすくなる。

大学生時代の自分が感じていた虚無感は、
この「社会との接続の不可視化」を
個人のレベルで先取りしていた状態だったのかもしれません。

社会性を取り戻すという統合

医師として働き始めてから感じた充実感は、
単に「やりがいのある仕事を見つけた」
という話ではありません。

  • 他者の生活に直接関与し
  • 判断と結果の距離が近く
  • フィードバックを受け取れる

その構造の中に身を置いたことで、
仕事が再び「生活側」に戻ってきた。

資本主義の枠組みの中にいながら、
社会性を回復する余地は、確かにある。
そう実感するようになりました。

まとめ:分離された世界での現実的な態度

仕事と生活が分離された社会で、
意味のある仕事を最初から求めるのは、たぶん少し無理があります。

それよりも、

  • 自分の行為は、どこで他者の生活と接続しているか
  • 判断と結果の距離は近いか
  • フィードバックを受け取れているか

このあたりを確認し続ける方が、
仕事は徐々に生活と再接続されていきます。

資本主義を否定する必要はありません。
ただ、その中で
社会性まで切り捨ててしまわないこと。

それが、
虚無感に飲み込まれずに働くための、
今のところの結論です。

おしまい。

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